僕はいつかきっと、くるみのことを忘れてしまう。
- Tatsuya Fukuchi
- 7 日前
- 読了時間: 4分
僕はいつかきっと、
くるみのことを忘れてしまう。
もし、何もしなかったらね。

ここで言う「忘れる」というのは、
存在そのものがわからなくなる、
という意味ではありません。
こころの中に占める割合が、
少しずつ減っていくという意味です。
円グラフを想像してみてください。
どんなに有能な人でも、
こころの容量は100%しかありません。
仕事、家族、恋人、友人、趣味。
いろいろな項目が、こころの中で、
領地を取り合っています。
比率は、いつも変動します。
たとえば、転職したばかりの時は仕事の割合が増えるし、慣れてくれば少しずつ下がっていく。
犬やペットも同じです。
元気な頃より、シニア期や介護期のほうが、こころの中で占める割合は大きくなるかもしれません。
ごはんを作る。
おむつを替える。
病院に連れて行く。
治療について悩む。
自分で出来ていたことが減って、手助けが必要になると、日常の中に、たくさんの「接点」が生まれるからです。

でも、肉体がなくなれば、
その接点は一気に無くなってしまう。
だから、こころの中の割合が減っていくのは、ある意味、とても自然なことだと思うのです。
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そして、厄介なことに忘れることと、悲しみが癒えることは、表裏一体でもあります。
くるみは、金曜日の朝に旅立ちました。
最初の頃は、朝が来るのが怖くて仕方なかった。同じ時間を迎えると、また同じことが起こるような気がして、何度もあの瞬間がフラッシュバックしました。
次は、金曜日が憂鬱になりました。木曜の夜になると、「明日の朝になったら……」と考えてしまって、苦しくて仕方なかった。
でも今、その苦しさはありません。
もちろん、意識的に思い出そうとすればできるけど、日常的に痛みを感じているわけではないという意味です。
「回復した」とも言えるし、
「忘れた」とも言える。
同じように、もし日常の中でくるみとの接点を持たなければ、きっと、少しずつ忘れていき、薄れていくのだと思います。
いつの間にか月命日が過ぎていたり、
次は「うちの子記念日」を忘れてしまったり、
終いには誕生日を忘れてしまう。
日常に忙殺されて、
目の前のことに夢中になるあまり。
それは、こころの円グラフのなかで、彼女の居場所が2%…1%…とだんだん小さくなって、最後には無くなってしまうということ。
そこに、愛の大小は関係ありません。
だから、
僕はそうなりたくない。
それがわかっているから、肉体のないくるみと、これからも接点を持ち続けるために、mementoを立ち上げました。
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mementoのプロダクトは、日常生活で「つながり続ける」ことを目的に製作されています。

生活に自然な形で溶け込む、墓碑や骨壺カバー、写真を彩るフォトフレーム。それらが「接点」となって、僕らをつなぎ続けてくれます。
そして、その接点たちはただそこにあるだけではなく、自然に「行動」を呼び起こします。
お菓子や果物を供えること。
花の水を取り替えること。
ろうそくやお香に火をつけること。
骨壺カバーを着替えさせること。
それは生前、僕らがしていた日々の活動に比べたら小さな行動かもしれません。
でも、
その行動をきっかけに会話が生まれ、
思い出がこころの中で息づいていく。
そんなモノがなくても「私はずっと想い続けられる」という人もいるでしょう。それはそれで、とても素晴らしいことだと思います。
でも、人間は忘れていく生き物だから。
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“memento mori”(メメント・モリ)という言葉があります。『死を想え』と訳されるラテン語です。
この言葉は、古代ローマ時代のある習慣に由来すると言われています。
将軍が戦いに勝ち、凱旋式のパレードで市民から喝采を浴びているとき。そのすぐ後ろに立つ使用人が、将軍にこう囁いたそうです。
“memento mori”
『いつか死ぬ人間であることを忘れるな』
人生の絶頂にいる男にかける言葉としては、あまりにも不釣り合いに思えます。それでも将軍たちは、自らの指示のもと、あえてその言葉の意味を噛み締めたのです。
なぜなら、人間はあまりにも簡単に忘れてしまう生き物だから。
栄光、痛み、喪失。
どんなに大切なことであっても、時間が経てば、こころの中で少しずつ薄まって風化していく。
だからこそ、「忘れるな」と言い聞かせる必要があったのでしょう。
ここで大切なのは、“memento”という言葉が、「たまに思い出しなさい」という意味ではなく、「常に思いに留めておきなさい」という意味であるということ。
冒頭の円グラフの話に戻るなら、たとえ1%でも2%でも、こころの中に常に居場所を確保しておく必要があるのです。
「たまに思い出す」ということは、
裏を返せば「普段は忘れている」ということ。
そうではなくて、
日常の中で、「想い続ける」。

僕にとっては
墓碑や骨壷カバーだけでなく、
Instagramを更新すること、
こうやってBlogを書くこと、
そしてmementoの活動そのものが、
くるみの“memento”なのです。
そうやって僕は、そしてmementoは、忘れていく人間の性質に抗い続けようと思うのです。
もし、何もしなかったら、
僕はいつかきっと、
くるみのことを忘れてしまうだろうから。
みなさんにとっての
“memento”は何ですか。



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